禅苑清規(ぜんねんしんぎ)とは、禅宗の清規の書としては、現存最古の書です。
百丈の古 清規に則りながら、時代の推移に随い、広く諸方の叢林の現状に則して、新しく禅院の 行事、制度等についてなど …、巻八の「坐禅儀」と「亀鏡文」は、のちの清規書に 継承され、日本では別行して、『五味禅』『四部録』などにも収められています。
禅苑清規(ぜんねんしんぎ)とは、禅宗の清規の書としては、現存最古の書です。
百丈の古 清規に則りながら、時代の推移に随い、広く諸方の叢林の現状に則して、新しく禅院の 行事、制度等についてなど …、巻八の「坐禅儀」と「亀鏡文」は、のちの清規書に 継承され、日本では別行して、『五味禅』『四部録』などにも収められています。
御座直し(ござなおし)とは、鎌倉・室町時代の死亡した故人を安置した形(様子)を言います。
よって鎌倉・室町時代には、人が死亡すると「御座直し」が行われました。
故人を北枕にして筵(むしろ)の上に寝かしなおし、屏風を逆さに立てめぐらし、枕元に灯明を1つ立てて消さないようにし、香をたき、夏は酢を鉢に入れて死者の鼻の近くに置き(消臭のためと言われています)、人々も僧侶も屏風の外に侍(はべ)りました。
吉事略儀 (きつじりゃくぎ)とは、天皇・上皇・女院等の葬礼次第を記したものです。
12世紀後半頃には火葬塚について,貴所(火葬地)の施設を取り除いた後に土を盛ること,石卒都婆(いしそとば)を立てること,釘貫(くぎぬき)(木戸)をたて四面に溝を掘ることを記しています。
吉事次第 (きつじしだい)とは、鎌倉時代に書かれた文献のひとつです。これには当時の天皇・貴族の間で行われた葬儀の概略が書かれて居ります。この時代には、蔡事或いは凶事という言葉が忌み嫌われ、葬儀のことを吉事或いは勝事とよんで居りました。
鎌倉時代には 浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が興されました。貴族階級は没落し、武士階級が興隆し、民衆は厄災に悩まされる事に成ります。日本に於ける 武士や庶民の葬法はこの時代から出来始めて居ります。その基になるのは 中国で編纂された禅宗の葬法で、本来は僧侶の為の葬法ですが それに手を加えて 武家や民衆の葬法と変化して行きました。
吉事次第には 以下のように書かれて居ります。
まず人が死ぬと北枕に直し、衣を上にかけてご遺体を覆い、枕元に屏風を逆さに立て、燈火に火を灯し、葬儀が終わるまで消えない様に守る。香は燈火の火を点けて焚く。夏は酢を容器に入れて死臭を消す。人々は屏風の外に待機し、僧侶は死者に真言を唱える。
棺は木製で長さ6尺3寸、幅1尺8寸、高さ1尺6寸を標準とする。棺の中には香や土器の粉を敷き詰め、ご遺体が動く事を防ぐと共に、ご遺体から漏れる体液を吸収する事に役立てる。納棺は褥のままご遺体を納め、その上に梵字を描いた布で覆う。そして頭、胸、足の三カ所に砂をふりかけ、蓋を閉じて葬儀に時まで北枕で安置する。葬儀は夜間に執り行い、葬儀後は葬列を組んで貴所屋(火葬の為の仮屋家)に送り荼毘に付す。収骨は焼骨をカメに納めて土砂を加えて蓋をし白の皮袋に包む。そのご遺骨は三昧堂に納める。葬儀・火葬が終れば 貴所屋を取り壊し、その後にお墓を作って卒塔婆を建てる。
この当時は葬儀の後、魚鳥などを放して死者の冥福を祈る習慣も有りました。七七日と一周忌の法要は以前から有りましたが、この時代から三回忌や十三回忌の法要が営まれる様に成りました。
往生要集(おうじょうようしゅう)とは、比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなるものです。
死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。 また、この書物で説かれた、地獄・極楽の観念、厭離穢土・欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えました。
また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、唐末五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆されています。
二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)とは、平安時代に結成された念仏結社です。
986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社の性格は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等の「発願文」に、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏することを記していました。
『日本往生極楽記』の撰者でもある慶滋保胤が起草した「二十五三昧起請」には、
1.毎月十五日に念仏三昧を修すること。
2.光明真言を誦して、土砂加持を修すること。
3.結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代わりの者を補充する。
4.別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移す。
5.病んだ結衆を往生院に移した時は、二人一組となって昼夜の別なく従い、一人が看病、一人が念仏を担当する。
6.花台廟と名づけた結衆の墓地を定め、春秋2回、集まって念仏会を修する。
7.ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずる。
8.結衆に欠員が出ても、残った結衆が修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならない。
という結社の決まりが述べられています。
二十五三昧会の成立には、964年(応和4年)に大学寮の学生らが比叡山の僧らと結集した結社である勧学会の影響が見られます。但し、勧学会の場合は、念仏結社的な性格も有してはいましたが、『法華経』を読誦し、作詩も行なうサロン的傾向の強い集団でした。
平安時代以降,葬送の前,遺骸をしばらく安置しておいた「小屋」のことです。
古代には、殯宮 (あらきのみや)と言っていました。
江戸時代には、将軍の霊廟を特に御霊屋 (おたまや) と称し、また今日では、地方によって墓の上に置く屋形を霊屋(たまや)、火屋 (ひや) 、須屋 (すや) 、野屋 (のや) などと称しています。
阿弥陀護摩とは、「呪願(じゅがん)」と同様に悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生することを祈願した儀式だと言われています。
当時は、特に死者の減罪に力があると信じられていたようです。
呪願とは、悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生することを祈願したものだと言われています。
法会(ほうえ)など の際に、僧が施主(せしゆ)の幸福などを祈願すること。また、その祈願の文章。
常行三昧 (じょうぎょうざんまい)とは、天台宗の修行の一つで、阿弥陀仏の名を唱えながら修行することです。
後の浄土宗を開くものになりました。念仏によって往生を願う常行三昧は、法華三昧による滅罪と対になって信仰を集めた言われています。
常行三昧の修行をするところは常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。
藤原三代を祀った東北平泉の中尊寺金色堂も常行三昧堂の様式にならったものと言われています。
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