呪願 (じゅがん)とは・・・

呪願とは、悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生することを祈願したものだと言われています。

法会(ほうえ)など の際に、僧が施主(せしゆ)の幸福などを祈願すること。また、その祈願の文章。

常行三昧 (じょうぎょうざんまい)とは・・・

常行三昧 (じょうぎょうざんまい)とは、天台宗の修行の一つで、阿弥陀仏の名を唱えながら修行することです。

後の浄土宗を開くものになりました。念仏によって往生を願う常行三昧は、法華三昧による滅罪と対になって信仰を集めた言われています。

常行三昧の修行をするところは常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。
藤原三代を祀った東北平泉の中尊寺金色堂も常行三昧堂の様式にならったものと言われています。

法華三昧 (ほっけさんまい)とは・・・

法華三昧 (ほっけさんまい)とは、天台宗の修行の一つで「法華懺法」[ほっけせんぽう]とも言われ、法華経を読経することによってこの身このままが清められる、罪障(極楽往生を妨げとなるもの)が消滅するという考えから行われたものです。

天台宗の宗祖最澄が812年に、比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。
これを広めたのが、最澄門下の円仁[えんにん]だと言われています。

「三昧」とは、心を一事に集中して余念のないことを意味します。

また、法華三昧は本来、比叡山で「朝題目、夕念仏」と言われる日常修行の一つでした。

「御霊会(ごりょうえ)」とは・・・

「御霊会(ごりょうえ)」とは・・・怨霊を鎮魂させる儀礼です。

平安時代に、怨霊(御霊)[ごりよう]が疫病を頻発させ、死者を多くさせる原因と考えられ、
更に、陰陽師たちの活動もあり、貴族階級の中で怨霊(御霊)[ごりよう]鎮魂が盛んになりました。

10世紀後半になると、災害、疫病の原因は特定の個人の怨霊によるものではなく、漠然とした怨霊のためと理解されるようになりました。その怨霊を街から追い出し、鎮魂するために「怨霊会」が行われ「御霊神社」が建てられるようになりました。その一つが祇園祭(祇園御霊会)で、970年から始まっています。

「伸展葬(しんてんそう)」 ・ 「屈葬(くつそう)」 ・ 「抱石葬(ほうせきそう)」とは・・・

「伸展葬(しんてんそう)」とは、健在のように、遺体を伸ばした状態で葬る方法を言います。

「屈葬(くつそう)」とは、腕を曲げ、膝を折った状態で葬る方法を言います。

「抱石葬(ほうせきそう)」とは、遺体の上に石を置いた状態で葬る方法を言います。

文献に登場するはるか前の縄文時代の墳墓を発掘すると、「伸展葬」も見られますが、「屈葬」の方がはるかに多く見られます。そして「抱石葬」もありました。こうした方法ががとられたのは、死霊への恐怖が原因だと考えられています。

殯(もがり)とは・・・

殯とは、人が亡くなってもすぐに埋葬したりせず、一定期間をかけて死者の鎮魂をする事です。
内容としては、死者に食事を供し、死を嘆き悲しみ、歌い踊って死者の霊を慰める、という儀礼です。

手がかりとして「古事記」(712年)に「天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の様子」が書かれています。

これらは、現代のように医師がきちんと死の判定をすることがなかった為、人が死んだと言う事実を納得するには一定の時間がかかりました。その結果、死んだと思ってもすぐに遺体を処理(埋葬)してしまうのではなく、一定期間は「生きているかのように」扱ったのです。

この「殯(もがり)」が、現在で言う「お通夜」の始まりである・・・とも言われております。

光明真言とは・・・

「おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばらはらばりたや うん」で、これを 108 回唱えます。死者の滅罪に力があるとされ、この真言によって加持 (真言を唱えて清めること) された土砂を遺体にかけると仏の光明に包まれ、極楽に往生できると信仰された密教の修法  (修行の方法)です。

 罪がなくなると遺体がやわらかくなり、納棺しやすくなるとも信じられたようで、後に民間にも広く伝わりました。

薄葬令 (はくそうれい) とは・・・

「薄葬令(はくそうれい)」は、大化改新 646年に出されました。
この薄葬令が出されたことにより「厚葬」が廃される決定的な影響を与えた、と言われております。

 薄葬令は、「権力者の葬儀に多くの財や労力を費やすことは民衆に過重な負担をかけるので止めよう」という考えから生まれたものですが、身分別の葬制秩序の確立という側面もありました。

 「薄葬令」とは、
1.必要以上に大きな墓を作ることは貧窮を招くと警告し
2.死者の身分により墓を作る夫役の延べ人数の上限を定め
3.遺体は一定の墓地に集めて埋葬することとし
4.殯(もがり)や殉死(じゅんし)、宝物を副葬品とすることを禁じる
 など旧習俗を否定するものでした。

 薄葬政策はその後もとられ、持統天皇、元明天皇は倹約・簡素な葬儀を遺詔(いしょう)[天皇による遺言]し、平安時代にも嵯峨天皇や淳和(じゅんな)天皇などが薄葬を遺詔しています。その結果、巨大墳墓、殯だけでなく誄(しのびごと)[故人の功徳などを讃えること]や挙哀(きよあい)[悲嘆の気持ちを表し、礼拝すること]などが姿を消していくこととなりました。しかし、民衆においては殯や泣き女(雇われて葬儀で泣き、悲嘆をする女性)などによる挙哀などは生き残り続けました。

古墳 (こふん) とは・・・

 3世紀頃からは豪族の大きな墳墓(ふんぼ)、古墳(こふん)が作られるようになりました。形から、円墳(えんふん)、方墳(ほうふん)、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)、上円下方墳(じょうえんかほうふん)、双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)などに分類されます。積石塚(つみいしづか)と呼ばれる、墓の上に土の代わりに石を積み上げた高塚もありました。5世紀には応神陵(おうじんりょう)や仁徳陵(にんとくりょう)のような巨大な古墳も作られました。

 古墳の中には石室が作られました。遺体は棺に納められ、副葬品が添えてあります。人物や動物をかたちどった埴輪(はにわ)やさまざまな用具が副葬品として納められました。

 古墳文化は3世紀から7世紀まで続きます。前期は自然の丘陵(きゅうりょう)や尾根を利用したものが多く、中期では平野部に盛土(もりつち)をし、周囲に濠(ほり)をめぐらした巨大なものが、後期には横穴式石室をもった小さな古墳が作られたのが特徴です。

 古墳に代表される手厚く葬った葬法を「厚葬(こうそう)」と言いますが、これは有力者、豪族、天皇家といった人々のものでした。この「厚葬」も儒教文化が伝来すると6世紀頃から次第に少なくなっていきました。

一輪ざし (一本花) とは・・・

一輪ざし(一本花)とは・・・しきみを一輪 (一本) さす(お供えする) こと。
             また、初七日までお供えするのが良いと言われています。

意味として・・・一輪なのは、これでもうお供えしませんよ、又お供え出来ませんよ、と言う意味や
        お釈迦様が亡くなった事を知らせる為に、枝を一本もって行った事から始まった。
                                    と、言われています。 

  しきみを用いるのは、灰になっても香りが残る事や、常緑樹で一年中有る為とか。
  昔は、椿の花をさしていた事もあったようです。
      由縁として・・花が「ポト」と落ちる事から「これで最後」という意味からのようです。