二十五三昧会 (にじゅうごさんまいえ)とは・・・

二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)とは、平安時代に結成された念仏結社です。

986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社の性格は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等の「発願文」に、善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏することを記していました。

『日本往生極楽記』の撰者でもある慶滋保胤が起草した「二十五三昧起請」には、
1.毎月十五日に念仏三昧を修すること。
2.光明真言を誦して、土砂加持を修すること。
3.結衆は規律を厳守し、叛いた者は脱退させて、代わりの者を補充する。
4.別所に阿弥陀如来を奉安した往生院を建立し、病んだ結衆はそこに移す。
5.病んだ結衆を往生院に移した時は、二人一組となって昼夜の別なく従い、一人が看病、一人が念仏を担当する。
6.花台廟と名づけた結衆の墓地を定め、春秋2回、集まって念仏会を修する。
7.ひたすら西方極楽浄土を念じ、極楽往生を念ずる。
8.結衆に欠員が出ても、残った結衆が修善によって、先に往生した結衆との縁を保たなければならない。

という結社の決まりが述べられています。

二十五三昧会の成立には、964年(応和4年)に大学寮の学生らが比叡山の僧らと結集した結社である勧学会の影響が見られます。但し、勧学会の場合は、念仏結社的な性格も有してはいましたが、『法華経』を読誦し、作詩も行なうサロン的傾向の強い集団でした。

霊屋 (たまや)とは・・・

平安時代以降,葬送の前,遺骸をしばらく安置しておいた「小屋」のことです。

古代には、殯宮 (あらきのみや)と言っていました。

江戸時代には、将軍の霊廟を特に御霊屋 (おたまや) と称し、また今日では、地方によって墓の上に置く屋形を霊屋(たまや)、火屋 (ひや) 、須屋 (すや) 、野屋 (のや) などと称しています。

阿弥陀護摩とは・・・

阿弥陀護摩とは、「呪願(じゅがん)」と同様に悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生することを祈願した儀式だと言われています。

当時は、特に死者の減罪に力があると信じられていたようです。

呪願 (じゅがん)とは・・・

呪願とは、悪魔を祓い、死者の霊を慰め、浄土に往生することを祈願したものだと言われています。

法会(ほうえ)など の際に、僧が施主(せしゆ)の幸福などを祈願すること。また、その祈願の文章。

常行三昧 (じょうぎょうざんまい)とは・・・

常行三昧 (じょうぎょうざんまい)とは、天台宗の修行の一つで、阿弥陀仏の名を唱えながら修行することです。

後の浄土宗を開くものになりました。念仏によって往生を願う常行三昧は、法華三昧による滅罪と対になって信仰を集めた言われています。

常行三昧の修行をするところは常行三昧堂、阿弥陀堂と呼ばれました。
藤原三代を祀った東北平泉の中尊寺金色堂も常行三昧堂の様式にならったものと言われています。

法華三昧 (ほっけさんまい)とは・・・

法華三昧 (ほっけさんまい)とは、天台宗の修行の一つで「法華懺法」[ほっけせんぽう]とも言われ、法華経を読経することによってこの身このままが清められる、罪障(極楽往生を妨げとなるもの)が消滅するという考えから行われたものです。

天台宗の宗祖最澄が812年に、比叡山に法華三昧堂を建立し、法華三昧を日本に初めて紹介しました。
これを広めたのが、最澄門下の円仁[えんにん]だと言われています。

「三昧」とは、心を一事に集中して余念のないことを意味します。

また、法華三昧は本来、比叡山で「朝題目、夕念仏」と言われる日常修行の一つでした。

「御霊会(ごりょうえ)」とは・・・

「御霊会(ごりょうえ)」とは・・・怨霊を鎮魂させる儀礼です。

平安時代に、怨霊(御霊)[ごりよう]が疫病を頻発させ、死者を多くさせる原因と考えられ、
更に、陰陽師たちの活動もあり、貴族階級の中で怨霊(御霊)[ごりよう]鎮魂が盛んになりました。

10世紀後半になると、災害、疫病の原因は特定の個人の怨霊によるものではなく、漠然とした怨霊のためと理解されるようになりました。その怨霊を街から追い出し、鎮魂するために「怨霊会」が行われ「御霊神社」が建てられるようになりました。その一つが祇園祭(祇園御霊会)で、970年から始まっています。

「伸展葬(しんてんそう)」 ・ 「屈葬(くつそう)」 ・ 「抱石葬(ほうせきそう)」とは・・・

「伸展葬(しんてんそう)」とは、健在のように、遺体を伸ばした状態で葬る方法を言います。

「屈葬(くつそう)」とは、腕を曲げ、膝を折った状態で葬る方法を言います。

「抱石葬(ほうせきそう)」とは、遺体の上に石を置いた状態で葬る方法を言います。

文献に登場するはるか前の縄文時代の墳墓を発掘すると、「伸展葬」も見られますが、「屈葬」の方がはるかに多く見られます。そして「抱石葬」もありました。こうした方法ががとられたのは、死霊への恐怖が原因だと考えられています。

殯(もがり)とは・・・

殯とは、人が亡くなってもすぐに埋葬したりせず、一定期間をかけて死者の鎮魂をする事です。
内容としては、死者に食事を供し、死を嘆き悲しみ、歌い踊って死者の霊を慰める、という儀礼です。

手がかりとして「古事記」(712年)に「天若日子(あめのわかひこ)の葬儀の様子」が書かれています。

これらは、現代のように医師がきちんと死の判定をすることがなかった為、人が死んだと言う事実を納得するには一定の時間がかかりました。その結果、死んだと思ってもすぐに遺体を処理(埋葬)してしまうのではなく、一定期間は「生きているかのように」扱ったのです。

この「殯(もがり)」が、現在で言う「お通夜」の始まりである・・・とも言われております。

光明真言とは・・・

「おん あばきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばらはらばりたや うん」で、これを 108 回唱えます。死者の滅罪に力があるとされ、この真言によって加持 (真言を唱えて清めること) された土砂を遺体にかけると仏の光明に包まれ、極楽に往生できると信仰された密教の修法  (修行の方法)です。

 罪がなくなると遺体がやわらかくなり、納棺しやすくなるとも信じられたようで、後に民間にも広く伝わりました。